お昼の東洋哲学

日本の伝統的価値観だとか殊更に言われるようになった昨今。ほんとうにそれは伝統的な価値観なのか基本に立ち返ってみよう。お昼に1つずつどうぞ。序をのぞき全10章。

序  岡倉覚三(天心)『茶の本』より

岡倉覚三(天心)『茶の本』より。

 

 西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。

1 山桜 〜大和心とはなにか〜

山桜 〜大和心とはなにか〜

 

 保守・右翼の方に大変好まれている本居宣長という江戸時代の国学者がいる。

 彼は、それまでの儒学=中国思想中心の学会を批判し、「日本の思想に立ち返れ」と説く。この辺りに、右寄りの人等が本居宣長を好む理由がある。

 また「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」という彼の詠んだ歌がある。これは、戦前の日露戦争中には、税収アップをねらった政府が、この歌からとった「敷島・大和・朝日・山桜」という官製品の煙草を作ったり、大戦中の神風特別攻撃隊の四部隊の隊名である、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の由来にもなっていたりして、過去の戦争とはいろいろと結びついている

 このように、本居宣長は、保守勢力や右翼と非常に相性の良い思想家というイメージがあるのだが、実はここには、彼の思想に対する誤読の影響がある。「中国(異国)の思想よりも自国の思想を重視せよ」という彼の主張の一部ばかりが一人歩きしてしまっていて、彼が「本当に大切にしろ」といったものは何なのか、が大抵の場合抜け落ちているのである。

 

 彼の数ある著作の中でも、特に有名なのは、完成までに36年を費やした『古事記伝』であるが、その一方で、彼が『源氏物語』を再評価した人であることもかなり重要だ。『源氏物語』の再評価とは、彼が生きた時代背景を考えると、実はなかなか大胆な意見でもあるのだ。

 江戸幕府の当時の思想的支柱を担っていたのは儒学である。儒学の倫理観は、ひと言で言って「硬い・堅い」。そんな儒学からすると『源氏物語』は不倫に満ちた晦淫の書であり、それ故に排斥されてきたのだ。いまでこそ不朽の名作としての地位を与えられている『源氏物語』であるが、当時はそれほどの評価をされていなかったのである。

 ところがそれを彼は「此物語は、よの中の物のあはれのかぎりを、書きあつめて、よむ人を、感ぜしめむと作れる物」として評価する。「そんな儒学者のような考え方ってどうなのよ。人ってそういうものだし、そういう『もののあわれ』を感じるのが大和心じゃないの」と言ったのが本居宣長である。ちなみに、本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』に、「『あはれ』といふは、もと見るもの聞くもの触るる事に心の感じて出づる嘆息(なげき)の声にて、今の俗言(よのことば)にも、『ああ』といひ、『はれ』といふ、これなり」とある。つまり「あわれ」とは感動詞「あ」と「はれ」との複合した語だ、ということである。そしてそれは、喜怒哀楽すべてにわたる感動を意味し、平安時代以後は、多く悲しみやしみじみした情感、あるいは仏の慈悲なども表すようになった言葉だ。

 このように観てくると、「中国(異国)の思想よりも自国の思想を重視せよ」という彼の主張に対する印象はずいぶんと変わってくるのではないだろうか。

 

 また、日露戦争時の煙草、神風特攻隊に引用されたという、先に紹介した歌についてみてみよう。

 

 敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花 

 

 『本居宣長記念館』のホームページを参照しながら、この歌の意味を考えてみる。

 この歌は、宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれていて、歌は「自画像でお前の姿形はわかったが、では心について尋ねたい」と言う質問があったことを想定している。その問いに対する宣長は答えが「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です」というものになる。

 つまり一般論としての「大和心」を述べたのではなく、どこまでも宣長自身の心についての歌なのである。 

 ところがこの歌の解釈は、その後変質していくことになる。 

 

 「日本の武士は決して死をおそれませんでした。うまく生きのびようとするよりもどうして立派な死にようをしようかと考えている武士は、死ぬべきときがくると桜の花のようにいさぎよく散っていったのです。だから本居宣長という人は、

 

  敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花

 

という歌を歌って、日本人の心は朝日に照りかがやいている桜のようだと言ったのです。」(『大日本国体物語』白井勇、昭和15年3月刊、博文館

 

 ここには、本居宣長がこの歌に込めた心はない。宣長は決して武士の死に様と自分の心を、ましてや日本人の心を重ね合わせてはいないのだ。

 

 少し話はそれるが『本居宣長』という著作のある小林秀雄は「山桜」をことの他好んでいたようだ。彼の「文学の雑感」という講演の中で、「葉と花が一緒に出る山桜こそ桜なのだ。ソメイヨシノなんてものは最近になって、文部省と植木屋が結託して広めたもので、ろくなもんじゃない」というようなことを言っている。

 そして小林秀雄は、本居宣長が山桜を愛していたことに触れ、生前の宣長は「自分の墓は質素でいいから、そばに立派な山桜を植えてほしい」と言い残していたのだが、その山桜は枯れてしまい、今では墓も立派なものになってしまった、宣長を尊敬しているという後世の者たちが立派な墓に立て替えたのだが、そういう人たちは決まって宣長を読んでいないし、理解もしていない、だからそんな墓を建ててしまうのだ、と嘆いている。

 今、「日本古来の伝統的価値観に戻るべきだ」という人々の中で、本居宣長をきちんと読んだことのある人はどれだけいるだろうか。そして、宣長が主張した、戻るべき日本精神とは「もののあわれ」であって、儒教的なものではないというのに「伝統的価値観」を叫ぶひとたちの「価値観」とやらが、かなりマッチョで堅苦しい、儒教的なものであるのは、かなり矛盾を抱えている主張であると言わざるを得ない。

 

 最後に、夏目漱石の『我が輩は猫である』に、大和魂に関する思いが見られる一節があるので紹介しておこう。

 

 

大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした」

「起し得て突兀(とっこつ)ですね」と寒月君がほめる。

大和魂! と新聞屋が云う。大和魂! と掏摸(すり)が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする」

「なるほどこりゃ天然居士(てんねんこじ)以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。

「東郷大将が大和魂を有(も)っている。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有っている」

「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」

大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」

「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」

「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」

「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。

「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)った者がない。大和魂はそれ天狗(てんぐ)の類(たぐい)か」

2 日本の神々とは?

日本の神々

 

 神道は、明治維新後の国家神道とそれ以前では完全に別物というくらいに考えた方が良い。

 本来の神道とはどういったものか。

 『神道の逆襲』(菅野覚明著)を参考にすると「人々にとって、神さまはある時、突然、客人のようにどこからかやって来るもの」であり、「その訪れとともに日常の風景の変容・反転をもたらすもの」であり、それは人にとって良いものでも悪いものでもある。人はそれを客として迎え、適切な応対をした後にお帰り頂く(やり過ごす)。そのような神が人に見せる世界は「不気味で恐ろしい世界でもあり、異様に魅惑にあふれた世界」でもあるが「その異形の世界は、人々の見慣れた日常世界と、『骨牌(カルタ)』の裏表のように一体のもの」なのである。

 また、本居宣長は、神とはいかなるものかとの問いに「人、動植物、鳥獣木草、海山、自然現象など、なんであれ身の毛のよだつような異様な者として私たちが出会うものが神だ」と答えている。

 人と神との関係にも注目すべく点がある。人は神と出会ったときに生じる面倒くさい事態や症状に対して、「それを打ち負かす、治療する、矯正する」のではなく「適切な応対をしてお帰り頂く」のである。これは時に日本人特有の曖昧な対応として否定される面もあるだろうが、多種多様な存在や事態に対して、それをそのまま受入れ、良い意味でやりすごす術を持っているともいえる。僕個人としては後者として捉えて、現代社会においてむしろ重要な能力として考えても良いのではないかとも思う。

 

 もうひとつ、柳田国男の面白い指摘がある。神話の世界で、神と接した結果として恩恵を受ける者は、「馬鹿正直な者」であるというのだ。それは、他の者が興味関心を抱かないようなことに執着したり、そこまで守り通さないルールを守り続けたり、普通なら異様な現象と思えることをそのまま受入れられる者で、必ずしも後世の儒教的倫理観等に則った「良く出来た人」ではなく、どちらかというと「ちょっとおかしな馬鹿正直者」ということである。そういう日常や常識を逸脱したもの、特殊な能力を持ったものが、ある意味で社会を変え、成功をおさめることもあるのだという話が多く言い伝えられているのは、最近の自閉症スペクトラムの話とも通じるところもあるように思えて興味深い。

 

 さて、明治維新後である。

 維新後、政府は神道を国教として据えることで徹底的に国民を教化し、欧米型帝国主義国家の体制を固めようとした。その際に行われた「廃仏毀釈」の暴挙は有名だが、そうした破壊は実は神道自体にも及んでいた。「神社合祀政策」として、多くの種類の神社の廃止・統廃合を押し進め、国家神道としての整理と権威付けを行うのである。過去、吉田神道垂加神道のように、統一の理念と政治的統合を試み、実際にそのように神道界を動かしてきた歴史もあるが、このように神々の多様性を極端に否定するのは日本史上初めてといっても良い。これに対し南方熊楠等が、地域の氏神信仰に大きな打撃を与えるとして反対し続ける。しかし政府はさらに民間信仰禁止令を押し進め、あたかもイエスの代わりに天皇を、聖書の代わりに古事記を当てはめて一神教にするかのごとく、他の神々を異端として抑圧する。そして、皇室の祖先とされる天照大神を最高神とし、それ以外の信仰を禁じ、「作られた神道」に儒教をプラスした教育勅語をつくり国民を教化する。

 

 戦後、保守勢力の一部や伝統的価値観がどうのと言う人が「日本は神の国」だとかいうときのイメージの多くは維新後の国家神道のそれである。しかしその歴史はたかだか維新以後80年間に人為的につくられたものであり、本来日本で暮らしてきた人々が「神の国」と言うイメージ(善悪も超越した得体の知れないなにかと共存している国)とまったく異なる。それは、仮に神武天皇のときから数えるとするならば2600年分を無視している浅薄なイメージであり、本来の神道と全く別物であり、むしろ日本の神々をないがしろにしてきたものと言えるのだ。それを勘違いして国家神道的なものを「守り伝えていくべき伝統的価値観」などと言うのは、むしろ本来の神道的価値観から完全に逸脱している。日本人、というよりも、この風土で育った者には、異質なものを、多様なもの、そしてそれらを単純な善悪に二分せずに受入れるという特性があったーそれが本来の伝統的価値観なのだ。

 

3 世界初の死刑廃止国・日本

世界初の死刑廃止国・日本

 

 日本が世界初の死刑廃止国であることは、あまり知られていない。

 日本は725年に最初の「死刑廃止」を宣言する。これは世界初の死刑廃止である。他国に於いては1786年、中部イタリアの都市国家トスカナで、ルソーの思想からの発展で実施されたのが初めてとされており、これよりも1000年あまり先立っている。

 

 その後、一旦死刑制度は復活した後、810年に一人死刑に処せられて以降、1156年に源為義が死刑に処せられるまで、347年間もの長期間、事実上一人も死刑に処せられていない。さらに大化(645年)〜寿永(1184年)までの539年間で見ても、その間の347年間は先述のように一人も適用されず、それ以外の期間でも「権力闘争の結果としての死刑」以外は存在しない。

 どうして死刑を否定したのか。その理由は様々で、因果応報を恐れたから、仏教的価値観から殺生を避けた、治世のために死刑はむしろ逆効果と考えた等様々である。 

 

参考文献『日本死刑史』(布施弥平治著・成光館書店)

4 朱子学 〜「日本を取り戻す」との不思議な関係

朱子学 〜「日本を取り戻す」との不思議な関係

 朱子学という儒学の一派がある。

 かなり乱暴に説明すると・・

 宇宙は「理(原理)」と「気(運動)」の二つから成るとする「理気二元論」という思想が基本にある。そして人間の本性は「理(原理=純粋・善)」だけれど「気(運動=感情・欲望など)」も必ず生じるので、「理」を曇らせないためには儒学を学んで「理」を再確認し続けないといけない、という考え方である。

 

 さて、この朱子学が中国で生まれた背景が重要だ。

 当時、漢民族の国家・宋は、北部女真族の金や、西夏、蒙古、等の他の民族に奪われていた「南宋」の時代。「中華思想」という他民族に対して強烈な優越感を持つ漢民族からすると、国力が弱った結果として周辺の異民族と和平を結ばなければやっていけない「屈辱の」時代と言える。朱子学は、そんな時代の漢民族の思想という側面もあるのだ。

 朱子学には「大義名分論」というのがあるのだが、そこではそんな時代背景を反映してか、『理=正当・正統=漢民族、気=不当=周辺民族』という二元論にしたい思いが現れている。この中で、国の統治者を表す言葉として「王者」と「覇者」という言葉を使い分けるのだが、前者は「徳をもって国を治める者=正統/正当」後者は「武力でもって支配するだけの者=不当」という違いがある。これは、「所詮、北方民族なんか武力があるだけの覇者で、正統/正当な連中ではないのだ、本来王者たる資格は漢民族にしかないのだ」という、ある意味強がりの現れなのだ。

 この辺なんかは、「あれ?なんだか今の日本の状況とちょっと似てる」と感じないだろうか。

 日本では江戸時代に林羅山が、この理気二元論を「人の上下関係」に解釈し、幕府支配の思想的支柱に据える。それが江戸幕府の正学となり、それを元につくられたのが「武家諸法度」であり、さらには維新後の「教育勅語」である。

 保守・右派の人たちの中に少なくない反中の人々には「江戸時代や戦前の国家の教育に戻せ」と主張する人も多いけれど、それは「中国産の思想由来の教育に戻せ」と主張しているとも言えることになる。そうした矛盾を孕んでしまう主張であることに対してどの程度自覚があるのだろうか。

 また「失いかけたプライドを無理矢理にでも保つ、発揚する」という動機もあったと言える朱子学が、日本では武士道や戦前教育の母体となり、それが時を経て、今の政治家たちが「日本を取り戻す!」というスローガンのもとに、戦前の教育や価値観を持ち出してくるところなどは、実に興味深いリンクだと感じる。

5 神判 〜なんとなく皆が反論・否定しにくい強力な何か〜

神判 〜なんとなく皆が反論・否定しにくい強力な何か〜

 

 「神判」という、神仏に罪の有無や正邪を問う裁判形式が世界中広く存在していたのだが、特に日本はそれが長い期間残っていたという文化的特徴がある。法律の概念が最も進んでいた中国では紀元前にはほぼなくなり、ヨーロッパでもキリスト教・教会という権力が絶対になるにしたがい1200年代には消えていくのだが、日本においては1600年代を過ぎても存在し続ける。

 

 日本では、熱湯に手を突っ込み火傷したらクロ、しなければシロという「湯起請」、時代が進むとエスカレートして、赤く焼けた鉄片を握って同様の判定を行う「鉄火起請」という神判が行われていた。

 今から考えると「なんてメチャクチャな」と思うところなのだが、その背景にはそれなりの合理性があり、単なる非科学的な裁判というわけではない。しかもそれは現代に通じるところもあるように思えるのである。

 面白いことに、それらの神判を行った結果は、なんと五分五分なのだ。普通に考えて、熱湯に手を突っ込んだり、焼けた鉄を握ったりすれば火傷しないはずがない。にもかかわらず結果が五分五分ということは、そこにはなんらかの作為があるということになる。

「作為がある」ということは重要で、即ち、信心深さからのみ行われたわけではないということである。信仰心に則って行うのであれば、そこに不正や作為は許されないはずである。

 そしてこれらが、主に権力者の力が弱い時代、もしくは社会/共同体が不安定なときに頻繁に行われているところもポイントだ。

 神判は、真実を見つけるためというよりは、共同体で「意見が割れているとき」「犯人がほぼ特定されているが証拠がない」あるいは「いろんな事情でその人が犯人だと困る」「なんでも良いから犯人を見つけたい」逆に「犯人はここにはいないと宣言したい」など、「共同体の安定」を最優先にはかるために行われる。社会が不安定で基盤の弱い権力者は、神の判断という後ろ盾を得て、政治を断行するために神判を行う。場合によってはこれが恐怖政治にまで繋がった時代もある。いずれにせよ、ある程度、望まれる落としどころがあって行われることも多かったに違いない。

 「神」は「なんとなく皆が反論・否定しにくい強力な何か」と言ってもいいかもしれない。そして、現代の日本において、「神」のかわりに、例えば「経済」とか「日本人」とか「民意」とかに置き換えてみる。それを皆が信じているかどうかは別で、「なんとなく否定しづらい強大な存在」である。

 不安定な状況下で権力者は、「私が言っているのではありません。経済が/日本人という総体が/民意が、そう言っているんです」と言って、市民を納得させる。不安定な社会状況下の共同体側は、「とりあえずなんでも良いから落ち着かせて」となる。そして、湯に手を突っ込んだりするような派手なパフォーマンスを演出して、とりあえずのシロ/クロをつけて儀式は完了する。

 

 そんなふうに想像してみると、日本は「湯起請」「鉄火起請」の時代から変わってないのかもしれない。

 

参考文献『日本神判史』(清水克行著・中公新書

 

6 日本の仏教 1 

日本の仏教 1 

 日本の仏教がオリジナルの仏教とは違うものである、ということは多くの人が知っている。そして「神仏習合」と言って、神道と仏教が重なり合っているということも知られている。だが、実は儒教もかなり混ざり合っているということはあまり知られていない。

 

 儒教の生まれた中国では、古来より現実的、即物的で、現世への執着がもの凄く強いという特性がある。そうした民族性にとって「死」は最大の問題であり、死後にこの世に戻ってくることができる、いうことがひとつの大きな願望であり、それを論理的に納得のいく説明を試みたのが儒家である。ちなみに老荘思想道教は「不老不死」を目指す。

 

 まず、儒家に限らず中国古来の発想として、人間は「精神(魂)」と「肉体(魄)」で構成されている。それが一致している状態が現世で生きている状態、死とはそれが分離し、魂は天上へ、魄は地下へといくことである。

 なので、いずれくるそれらの合体の時まで、墓や廟をつくって「遺体」を守り続ける。そもそも「遺」という言葉は「失う」という意味以外に「贈る、残す、とどめる」という意味の方が先にくる言葉である。

 そうすると、その墓なり廟なりを守り続けるためには家族・一族が必要であり、重要な存在となってくる。そこに「孝」という概念が生じる。孝の行いを通じて、自分の生命の未来での復活が保証され、即ち「永遠の命」を得ることになるのである。

 

 そうしたことを前提に、具体的には日本の仏教のどんなところに儒教が入り込んでいるのか。

 

 たとえば日本では死者のことを「ほとけさん」と呼ぶことがある。これは仏教の考え方ではなく、儒教の考え方だ。仏教では「仏」は「悟りをひらいたもの」であり、死んだからといって「ほとけさんになる」という発想は決してしない。ここでの「ほとけさん」は儒教における「魂」である。

 また、儒教では、魂が戻ってきやすいように、木の板に死者の名前や実績を書いてまつる。これがのちに仏教に入り込み位牌となる。そして仏壇も儒教に於ける廟や祠堂のミニチュアであり、お香を焚いて祖霊に祈るのも儒教の招魂儀礼である。そもそも仏教は本来墓を建てることも墓参りもしない。

 

 そんなわけで、今でも日本人の考え方は、もともと土着の考え方に、さまざまな外国の思想の影響をからませながら形作られてきたことがわかる。

 

 突然だが話はインドに飛ぶ。

 インド仏教の大乗仏教中観派の始祖、ナーガールジュナ(龍樹)は「空」の理論を完成させた天才として知られる。その理論を思い切って単純に説明すると「あらゆる現象はすべて因果関係の上に成立っている。ということは現象それ自身で存在するというとはない」ということである。たとえば、「長いもの」と言った場合、確かに短いものと比べれば長い。しかし、より長いものと比べれば「短いもの」になる。このように「長いもの」は他との関係によって成り立っており、常に「長いもの」と呼ばれるような固有の性質を持つわけではない。このように、すべてのものは固有の性質をもたず、空であると主張したのである。

 

 彼の「空」をここで持ち出したのが適切なのか自信はないが、たとえば「日本人」と言うとき、「空」の理論のように、「日本人」がそれ自身で存在することはなく、さまざまな因果関係の上で現れ出るものなのだ、と僕は思う。インド人、中国人、韓国人という存在や、そうした国の思想との因果関係においてのみ「日本人」は生じる。だから、「日本人」を「日本人」のみ取り上げることは不可能であり、そのような態度は単に「空っぽ」なことなのだ。

 

参考文献『原始仏教〜その思想と生活』(中村元著・NHKブックス