お昼の東洋哲学

日本の伝統的価値観だとか殊更に言われるようになった昨今。ほんとうにそれは伝統的な価値観なのか基本に立ち返ってみよう。お昼に1つずつどうぞ。序をのぞき全10章。

6 日本の仏教 1 

日本の仏教 1 

 日本の仏教がオリジナルの仏教とは違うものである、ということは多くの人が知っている。そして「神仏習合」と言って、神道と仏教が重なり合っているということも知られている。だが、実は儒教もかなり混ざり合っているということはあまり知られていない。

 

 儒教の生まれた中国では、古来より現実的、即物的で、現世への執着がもの凄く強いという特性がある。そうした民族性にとって「死」は最大の問題であり、死後にこの世に戻ってくることができる、いうことがひとつの大きな願望であり、それを論理的に納得のいく説明を試みたのが儒家である。ちなみに老荘思想道教は「不老不死」を目指す。

 

 まず、儒家に限らず中国古来の発想として、人間は「精神(魂)」と「肉体(魄)」で構成されている。それが一致している状態が現世で生きている状態、死とはそれが分離し、魂は天上へ、魄は地下へといくことである。

 なので、いずれくるそれらの合体の時まで、墓や廟をつくって「遺体」を守り続ける。そもそも「遺」という言葉は「失う」という意味以外に「贈る、残す、とどめる」という意味の方が先にくる言葉である。

 そうすると、その墓なり廟なりを守り続けるためには家族・一族が必要であり、重要な存在となってくる。そこに「孝」という概念が生じる。孝の行いを通じて、自分の生命の未来での復活が保証され、即ち「永遠の命」を得ることになるのである。

 

 そうしたことを前提に、具体的には日本の仏教のどんなところに儒教が入り込んでいるのか。

 

 たとえば日本では死者のことを「ほとけさん」と呼ぶことがある。これは仏教の考え方ではなく、儒教の考え方だ。仏教では「仏」は「悟りをひらいたもの」であり、死んだからといって「ほとけさんになる」という発想は決してしない。ここでの「ほとけさん」は儒教における「魂」である。

 また、儒教では、魂が戻ってきやすいように、木の板に死者の名前や実績を書いてまつる。これがのちに仏教に入り込み位牌となる。そして仏壇も儒教に於ける廟や祠堂のミニチュアであり、お香を焚いて祖霊に祈るのも儒教の招魂儀礼である。そもそも仏教は本来墓を建てることも墓参りもしない。

 

 そんなわけで、今でも日本人の考え方は、もともと土着の考え方に、さまざまな外国の思想の影響をからませながら形作られてきたことがわかる。

 

 突然だが話はインドに飛ぶ。

 インド仏教の大乗仏教中観派の始祖、ナーガールジュナ(龍樹)は「空」の理論を完成させた天才として知られる。その理論を思い切って単純に説明すると「あらゆる現象はすべて因果関係の上に成立っている。ということは現象それ自身で存在するというとはない」ということである。たとえば、「長いもの」と言った場合、確かに短いものと比べれば長い。しかし、より長いものと比べれば「短いもの」になる。このように「長いもの」は他との関係によって成り立っており、常に「長いもの」と呼ばれるような固有の性質を持つわけではない。このように、すべてのものは固有の性質をもたず、空であると主張したのである。

 

 彼の「空」をここで持ち出したのが適切なのか自信はないが、たとえば「日本人」と言うとき、「空」の理論のように、「日本人」がそれ自身で存在することはなく、さまざまな因果関係の上で現れ出るものなのだ、と僕は思う。インド人、中国人、韓国人という存在や、そうした国の思想との因果関係においてのみ「日本人」は生じる。だから、「日本人」を「日本人」のみ取り上げることは不可能であり、そのような態度は単に「空っぽ」なことなのだ。

 

参考文献『原始仏教〜その思想と生活』(中村元著・NHKブックス