お昼の東洋哲学

日本の伝統的価値観だとか殊更に言われるようになった昨今。ほんとうにそれは伝統的な価値観なのか基本に立ち返ってみよう。お昼に1つずつどうぞ。序をのぞき全10章。

7 日本の仏教2

日本の仏教2

「日本の仏教はオリジナルの仏教とは違う」

 それでは、日本の仏教はだめなのかというと、「違う」というだけでは、そうはならない。    仏陀の解釈では「それで良い」となる。なぜか?

 

 初期の仏教は、めざす究極の境地に到達するために、民衆のそれぞれの精神的素質や立場を尊重しながら真理を説いた。特殊な教説を立てて、他の宗教や哲学と争うことをしなかった。

 

 これは「真理を見る」立場に立つならば、既成諸宗教のどれにもこだわらなくなる、という姿勢である。仏陀によれば、どの宗教に属していても(別の宗教・哲学であっても)、やり方が違っていてもよい。所詮は真理を見ればよいのである。

 

 なので、インドから中国、日本と伝言ゲームのように変質しても、「真理を見る」という究極の目的が守られているかぎり、問題ないのである。逆に宗派などにこだわり、争うのは本来の仏陀の教えに反する。

 

 これは、仏教の多様性への寛容さの現れのひとつである。すべてを関係性においてとらえる哲学は、「立場や社会が変われば、何かに対する評価も変わる」という発想にも繋がる。したがって、人の個性というものの評価は一定ではない。ある特定の「個性」は、関係性の中で長所にも短所にもなる「空」なるものである。であるからそれに拘る必要はない。真理を見るという一点において共通すれば全てを受入れるのである。

 

 その立場から現代日本の政治を見る。政治の目的が国民の幸せの達成であるならば、その目的に向かう限りどんな政党であってもかまわない、さらにいえば政党など無意味だ。重要なのは各々の党派の優劣を議論するのではなく「真理を見る立場」にあるかないかのみである。なにをもって国民の幸せと考えるかは、いろいろ分かれるところだろう。しかし、ひとつだけはっきりしていることがある。すべては「命」があってのことだ。何においても、命を軽視する政治家を、僕は「真理を見る立場」にあるとは思わない。

 

 また、教育はどうか。本来の教育の目的(これが『国家への奉仕』と言われると『あ〜あ』なんだが)を仮に「それぞれの人格を最大限尊重してできるだけ幸せに生きる」というようなことだとするならば、それに向かうための方法は多様であって良い。そしてここでも、それぞれの多様な個性も尊重されなければならない。

 

 また、仏教の基本姿勢は「布教」ではなく「求道である」。だから、かつて中国人はインドへ教典を読みに行き自ら翻訳した。同様に日本人は海を超えて中国へ教典を求めに行く。多様性を認める立場にあっては、誰かが誰かに何かを押しつける、説得するのではなく、相手が自発的に求める、求めてもらうことからはじめなければならない。これは教育においても同様のことが言えることは多いと思う。

 

*参考文献『原始仏教〜その思想と生活』(中村元著・NHKブックス)