お昼の東洋哲学

日本の伝統的価値観だとか殊更に言われるようになった昨今。ほんとうにそれは伝統的な価値観なのか基本に立ち返ってみよう。お昼に1つずつどうぞ。序をのぞき全10章。

2 日本の神々とは?

日本の神々

 

 神道は、明治維新後の国家神道とそれ以前では完全に別物というくらいに考えた方が良い。

 本来の神道とはどういったものか。

 『神道の逆襲』(菅野覚明著)を参考にすると「人々にとって、神さまはある時、突然、客人のようにどこからかやって来るもの」であり、「その訪れとともに日常の風景の変容・反転をもたらすもの」であり、それは人にとって良いものでも悪いものでもある。人はそれを客として迎え、適切な応対をした後にお帰り頂く(やり過ごす)。そのような神が人に見せる世界は「不気味で恐ろしい世界でもあり、異様に魅惑にあふれた世界」でもあるが「その異形の世界は、人々の見慣れた日常世界と、『骨牌(カルタ)』の裏表のように一体のもの」なのである。

 また、本居宣長は、神とはいかなるものかとの問いに「人、動植物、鳥獣木草、海山、自然現象など、なんであれ身の毛のよだつような異様な者として私たちが出会うものが神だ」と答えている。

 人と神との関係にも注目すべく点がある。人は神と出会ったときに生じる面倒くさい事態や症状に対して、「それを打ち負かす、治療する、矯正する」のではなく「適切な応対をしてお帰り頂く」のである。これは時に日本人特有の曖昧な対応として否定される面もあるだろうが、多種多様な存在や事態に対して、それをそのまま受入れ、良い意味でやりすごす術を持っているともいえる。僕個人としては後者として捉えて、現代社会においてむしろ重要な能力として考えても良いのではないかとも思う。

 

 もうひとつ、柳田国男の面白い指摘がある。神話の世界で、神と接した結果として恩恵を受ける者は、「馬鹿正直な者」であるというのだ。それは、他の者が興味関心を抱かないようなことに執着したり、そこまで守り通さないルールを守り続けたり、普通なら異様な現象と思えることをそのまま受入れられる者で、必ずしも後世の儒教的倫理観等に則った「良く出来た人」ではなく、どちらかというと「ちょっとおかしな馬鹿正直者」ということである。そういう日常や常識を逸脱したもの、特殊な能力を持ったものが、ある意味で社会を変え、成功をおさめることもあるのだという話が多く言い伝えられているのは、最近の自閉症スペクトラムの話とも通じるところもあるように思えて興味深い。

 

 さて、明治維新後である。

 維新後、政府は神道を国教として据えることで徹底的に国民を教化し、欧米型帝国主義国家の体制を固めようとした。その際に行われた「廃仏毀釈」の暴挙は有名だが、そうした破壊は実は神道自体にも及んでいた。「神社合祀政策」として、多くの種類の神社の廃止・統廃合を押し進め、国家神道としての整理と権威付けを行うのである。過去、吉田神道垂加神道のように、統一の理念と政治的統合を試み、実際にそのように神道界を動かしてきた歴史もあるが、このように神々の多様性を極端に否定するのは日本史上初めてといっても良い。これに対し南方熊楠等が、地域の氏神信仰に大きな打撃を与えるとして反対し続ける。しかし政府はさらに民間信仰禁止令を押し進め、あたかもイエスの代わりに天皇を、聖書の代わりに古事記を当てはめて一神教にするかのごとく、他の神々を異端として抑圧する。そして、皇室の祖先とされる天照大神を最高神とし、それ以外の信仰を禁じ、「作られた神道」に儒教をプラスした教育勅語をつくり国民を教化する。

 

 戦後、保守勢力の一部や伝統的価値観がどうのと言う人が「日本は神の国」だとかいうときのイメージの多くは維新後の国家神道のそれである。しかしその歴史はたかだか維新以後80年間に人為的につくられたものであり、本来日本で暮らしてきた人々が「神の国」と言うイメージ(善悪も超越した得体の知れないなにかと共存している国)とまったく異なる。それは、仮に神武天皇のときから数えるとするならば2600年分を無視している浅薄なイメージであり、本来の神道と全く別物であり、むしろ日本の神々をないがしろにしてきたものと言えるのだ。それを勘違いして国家神道的なものを「守り伝えていくべき伝統的価値観」などと言うのは、むしろ本来の神道的価値観から完全に逸脱している。日本人、というよりも、この風土で育った者には、異質なものを、多様なもの、そしてそれらを単純な善悪に二分せずに受入れるという特性があったーそれが本来の伝統的価値観なのだ。