お昼の東洋哲学

日本の伝統的価値観だとか殊更に言われるようになった昨今。ほんとうにそれは伝統的な価値観なのか基本に立ち返ってみよう。お昼に1つずつどうぞ。序をのぞき全10章。

8 山鹿素行〜日本こそ世界の中心と叫んだ男が言いたかったこと〜

山鹿素行

 安倍総理の尊敬する偉人は吉田松陰だそうだ。ちなみにその吉田松陰に大きな影響を与えた人物のひとりに山鹿素行16221685)という思想家・兵学者がいる。この人もまた、保守・右翼にかなり人気のある思想家だ。

 

 彼は江戸時代、幕府の正学となっていた朱子学を「観念的すぎる」と批判。より実践的にして、且つ「儒学の原典へ帰れ」という主張をする。そして、農工商の身分の者たちと違って、武士は何も生産しない『天下の賤民』諌め、武士がそれを許されるのは、国を良き方向へ導き、それらの民衆の良き見本となるという役割があるからだ、とする。したがって、武士は自分を律しなければならない、として、事細かく生活面に至るまで「武士のあるべき生き方」を規定する。これは今盛んに言う「伝統的価値観」による「道徳」の源流である。

 

 そして、彼の『中朝事実』という著作では「中国は歴代皇帝が殺し合い、官僚は威張り、民は搾取されるという歴史を繰り返している。孔子の教えは尊いのだが、それを実現できているのは日本だ。日本は、天皇陛下は万世一系であり、人々は道義を重んじ、治安も保たれ、勤勉である。そうしてみると『中華/中国(世界の中心たる国)』は日本である」という主張をする。これが、保守勢力が今でも彼に喝采をおくる由来であり、乃木希典は自決する数日前にこの書物を皇太子(後の昭和天皇)に「ぜひお読み下さい」と講義している。

 

 さて、まず現代からすると「万世一系」とか「日本に歴代皇帝が殺し合う歴史などない」という彼の主張は歴史修正主義でしかなく、そこを論拠にしているのだとすると、彼の思想は根底から崩れ去る。(いまだに同じ主張をするトンデモな現代人もいるが・・・)

 

 また、この思想は幕末、尊王攘夷をとなえる水戸藩などにも生じた矛盾も孕んでいる。その矛盾とは、尊王を言えば言うほど、徳川幕府は正統な政権ではないのではないかという疑義が生じるが、徳川御三家たる水戸は幕府を否定はできない、というジレンマである。つまり、尊王を言うなら、つきつめると武士を否定することにもなりかねないという自己矛盾に陥るのである。

 

 しかし、僕はそれらの矛盾よりも、彼の思想を現代の保守が根本的なところで読み違えていることの方が気になる。思想や哲学にはその時代背景や当時の常識などから「現代からみると」矛盾が生じることがある。なので、それはある程度そうしたことは考慮して、差し引いても良いと思う。重要なのはその主張の「本来の目的と動機」だ。

 

 これはあくまでも「為政者に向けた」思想なのである。「まずは為政者が自分を律し、国民の模範とならなければならない。そうすれば自ずと国民は教化され、治世は落ち着く」ということを主張しているのだ。

 

 その根本的な姿勢を読み違え、あるいはすり替えて「国民が果たすべき義務・道徳」あるいは「日本人とはこうあるべき」そして「それが美しい日本人だ」と、彼の主張を引用するのは、完全に間違っている。もう一度言うが、これはまず「為政者が為すべき義務」なのだ。

 

 現代の多くの保守系の人は、そこを間違っている。まず「取り戻すべき」ことや「道徳観や義務感」を「植え付けなければならない」のは、保守・右翼の人々がよりどころとする思想家たちに則るならば、「為政者自身から」なのであって、憲法をいじって国民の義務や道徳を問うところからはじめるのは本末転倒なのだ。やるならば、政治家自身を厳しく見つめ直すところからはじめるのが本来の保守の思想なのではないか?